『目が覚めたら、きっと』











目が覚めれば、そこには彼の無防備な寝顔があった。

ドキッと心臓が飛び跳ねた。

でも、周りを見渡せば、ここは見慣れた談話室。
彼はグリフィンドールの深紅のローブを羽織ったままだった。









『目が覚めたら、きっと』















窓の外は果てしなく夜闇。
談話室の暖炉の微かな炎が、世界の内外を区別する。
窓がこの世界の確かな不連続となっている、その光景に、ハーマイオニーはハリーと二人きりという、この現実を強く意識する。

先刻までの饗宴が嘘のように静まり返った談話室。
グリフィンドールの勝利に、寮生一同飲めや歌えの大騒ぎ。日頃の憂さをいざ晴らさんとばかりに踊り喜ぶ皆の笑顔。

監督生だからと最後まで気を抜かずに、その陽気な空気の中、静かにグラスを傾けていたのは、ほんのちょっと前のことだったように思えるのに。


「どうして……」


思った事が口から零れてしまった事に気付き、その失態にほんの少し頬を染めたハーマイオニーだったが、それすら誰も聞く者がいないという、その静けさと不気味さを逆に嫌という程に痛感させられる。

勇猛な気質のハーマイオニーだったが、その空間の無機質な冷たさに、知らず知らず身を震えさせた。

無意識の内に深紅のローブをそっと握る。


「起こしてくれればいいのに……」


誰に言う訳でもなく、咎めるような強気な口調で自らを奮い立たせる。隣に眠る黒髪の少年を起こさないようにと、その声は気を遣ったのだろう、とても小さくか細いものだったけれど。
二人きりの談話室。すぐ横にいる少年の他に聞く者もなく。


「ハリーも、どうして……、ここで……」


眠る少年に目を向ける。その無邪気であまりに無防備な寝顔はとても同じ歳の少年とは思えず、綺麗だった。穢れを知らない白雪のように純粋に無垢なそれは、あまりに儚げな美しさを讃えているように見えた。

瞬間、痛ましさが胸を貫く。
それはいつも心の底で思っていた事で。

見ている自分が辛かったのだ。この少年の背負うあまりの重さに。

数奇な運命に生まれそれでも穢れを知らなかった少年に託された期待は重く激しくて、この儚い少年を壊してしまうのではないだろうか。

二人きりの閉ざされた世界の中で、あまりに唐突なその状況をさりとて気にする訳でもなく、ただ少女は、ハーマイオニーは、少年の身を案じた。

偉大な魔法使いにして、その境遇は天涯孤独。

溢れ輝く才能はやがてこの身を焼き切るのではないだろうか。
闇の帝王をも退ける光は、その熱さ故に、その身を焦がすのではないだろうか。

ふと気を許した瞬間に見せる、底なしの黒い瞳は、少年の誰よりも深い傷を、心に潜む闇を映すように思えてならない。


残された談話室。宴の後を、静寂が支配している。
皆、きっと、もう寝静まってしまったのだろう。

少女は、心の咎を少しだけ解放する。他人の前では常に張り詰める心の壁を、ほんの少し開けて。


「ハリー……」


ハーマイオニーは無意識の内に握り締めた。
草臥れた深紅のローブに深い皺が刻まれる。それでも、その手を離さずに。

同情したから、好意を抱いた訳ではなかった。
有名だから、好意を抱いた訳ではなかった。

でも、いつの間にか、込み上げる想いは、ただ、愛しみ。


「ハリー……」


ハーマイオニーはいつも心配だった。
少年がどうしようもない泥沼に嵌っているような気がして。ハリーが自らそう望んだ訳がないのに。

今日もまたそうだった。
確かにハリーはクィディッチが好きだ。

……しかし。

グリフィンドールを優勝に導く。その、一人一人のささやかな期待は、確かな重みとなって彼を捉えている事をハーマイオニーは知っていた。
ただでさえ、尋常ではないその生い立ちに、闇の恐怖が常に影となって付きまとう日々。その上で、期待に応える為に、連日、身体に鞭打って空を舞い金の球を追う。

華奢な彼の細身には一体どれほどの圧力が掛かっているのか。

……それでも、ハリーは笑うのだ。

寄せられる無責任な期待に応える義務などないのに、今日もまたその身をボロボロにして。
冷たく叩きつけるような嵐でも最速の箒に跨り、空を駆って、人々に興奮と夢を与える。誰もが恐れる闇に対峙し、勇気の剣を掲げ、不死鳥の杖を向け、人々の恐怖を払う。

それが嫌だった。
いつしか、嫌になっていた。

……或いは嫉妬なのかもしれない。

ハーマイオニーは恐らくは誰よりも少年を心配していた、惜しむらくは少年に誰よりも期待していた。

……何を?


「ハリー……」


何故自分はこんな事を思うのか?矛盾に直面し渦巻く気持ちは、自分自身、不可解だ。
唐突に置き去りにされた、その不気味な状況の中、考えるべき事は他にもあるのに。

それでもハーマイオニーは動かない。
憑かれたように少年の寝顔に見入っていた。

痺れるような感覚が頭に走り、昼間の事を思い出す。





眩しすぎる太陽を背に、彼女の顔を覗き込むハリー。

「ねえ、どうしたの?」

ハリーはただ、様子がおかしい彼女に声を掛けたに過ぎない。
それでもそれを看破された事にハーマイオニーは驚愕を隠せない。

……忍んだ恋はそれでも知らず知らず顔に出て、貴方に大丈夫かと尋ねられてしまった。

なんとか態勢を立て直し、答える。いつものように、普通に。


「何でもないわ」


必死で取り繕った微笑。何でもないはずがない、その眼が語っていた。
もとより鋭敏な彼がその眼を捉えぬはずがなく。
そっと、溜め息をつくと、言った。


「そう……、じゃあ、決めた」

「何を?」


訝しげな少女に向かって少年は微笑んだ。


「今日、僕は勝って、それを君に贈る」


眩しすぎる陽光の中、何も言えずに、少女はただ、少年の顔に見入ったのだった。







仄かに暗い談話室で、揺れる炎は、少年の長い睫毛に影を走らす。
昼間と変わらぬ顔で眠る少年。彼は何を思って、ああ言ったのだろう?


「酷い人だわ、貴方……」


あの一言で、ハーマイオニーは意味も判らず、ただ心躍らせていたというのに。
少年は易々とそれを成し遂げ、他には言葉もない。
いや、誰かしらが知らず知らずの内に二人になる機会を邪魔していた祝宴で、彼の言葉を期待するのは酷だったか。そんな機会はなかったのだろう。

だが、胸に灯った希望は、ほんの少しの不安に吹かれ、消えかかろうとしている。

彼にとっては、何でもない一言だったのだろうか?

眠る少年の頬にそっと手を添えて呟く。
手を離しても、深紅のローブには醜く皺の蹟が残った。


「好きなんだけど、な……」


……本当は、それでも構わなかった。ないがしろにされたとしても。

いいよ、貴方が誰を想っていても。私ではない誰かを見ていても。
それでも、私は……、きっと、離さないから……。

その決意は、いつしか少女の心に深く根ざして……。


眠る少年のあまりの無防備さに、思わず少女は苦笑を漏らした。
そして、それに付け入る自分自身にも。

少女はそっと口付けた。
呆れる程に柔らかく温かく。
初めて重ねた唇の味は何だかとてもしょっぱくて。


初めて自分が涙を流していた事に気づいた。


寝ている隙につけ込んだ自分。
穢してしまった純粋は取り戻せない。
踏みにじった雪がもう二度とその純白を取り戻せぬように。

しかし、こうでもしなければ自分が支えられなかった。



……ただ、どうしようもなく罪悪感は募って。

窓の外に視線を転じた。
夜闇の暗さが、深さが、何処か自分に似ていた。





「……気は、済んだ?」


不意に、声が掛けられる。
誰もいないはずの無機質な空間で、その囁くような声は、だが確かに空気を震わせた。


慌てて振り返ると、そこには赤毛の少年。ロン。
異性の親友。
右手に持っているのは透明マント。少年の背後の風景を透かしている。


「どうして……」


あまりの仕打ちに、言葉が零れた。遅いと判っていても、慌てて涙を拭く。


「出るに出られなくて、さ」

「いつからいたのよ」


真っ赤になった表情で少女は非難の響きを言葉に乗せる。
少年の登場は不意打ちだった。我慢がならなかった。


「ハリーがなかなか戻らないから、気になって見に来てみた。君がハリーにキスしていたよ」

「……」


淡々と語る赤毛の少年に、ハーマイオニーは気恥ずかしくなって黙り、俯く。


「祝勝会の後、眠った君達をソファに残して、僕達に早く寝るようにと言ったのはマクゴナガル先生だ。ハーマイオニーのことだから、すぐ起きるだろうと言ってね」

「……」

「さっき目を覚まして、ハリーがいない事に気付いた」

「……」

「僕がこういう事を言うのはマズイかもしれないけれどね、ハリーは君が好きだから。もしかしたらって、思ったんだ」


少女がハッと顔を上げた。
すがるような視線を向けられた少年は、しかし、続けた。


「気づかなかった?今日えらく張り切ってたでしょ、ハリーの奴。約束したらしいね、君と。」

「じゃあ……、あれは。でも……、なんで、ハリーは……」

「チョウが好き?」

「……」

「そう見せてただけだよ」


ロンは複雑な笑みを浮かべたまま、だが、はっきりときっぱりと告げた。
さも何でもない事であるかのように。軽く振り払ったのだ、最大の障害を。

だが、その言葉に少女が救われたのは事実だ。


「君達はお似合いだ、と思う。僕はね」

「……何故、そんな事を言うの?」

「今のを見たから、かな。親友だからね。正直、歯痒い」


二人の間で言葉が潰え、沈黙が空間を包む。
気まずさの中、二人が見ていたのは、眠れる少年。何も知らず何も思わず、その無防備な寝顔を晒している。


「ハリーはどうだか判らないけど、僕は前から知っていたよ。君の気持ち」

「そう……、単純に、見せていたつもりはないけど……」

「何故、伝えなかったの?」

「それは……、貴方と同じじゃないかしら」


瞬間、赤毛の少年は怯んだような表情を見せた。
だが、すぐに諦めたように溜め息をつき、苦笑する。


「知っていたか……、やっぱり……」

「さすがに、ね……」

「じゃあ、僕にこんな事言わせるなんて可哀想だと思わなくちゃ」

「……」

「君が好きでした、僕は。判っているから答えはいいよ。だから、君も……」

「そうね……」

「ああ」


ハーマイオニーはロンを見る事ができなかった。
だから、ハリーを見る事にする。

ロンは振り切るように頭を振って言った。


「ハリーはね、待っていても言葉にしないよ、きっと。なるようにしかならないのに、重く考えすぎるからね、何事も。だから判りにくい」

「それは知ってるわ。私も長いもの……」

「想いは伝えなくちゃ、伝わらないこともある。ま、僕は相手が鋭かったけどね。ハリーは、どうだろう……」

「……」

「踏み込むのってさ、勇気いるよね。……でも、君は得意だったろう」

「……そう、見せてただけよ……」

「それは知らなかったな」

「だから駄目なのよ」


赤毛の少年は微笑んだ。屈託なく。
潔く振られたけれど、少女を励ます事が出来たから。


「……じゃあ、おやすみ。冷えるからこれを」


差し出したのはくたびれた毛布。しかし、それはとても暖かそうで。
眠っていたなら、それを掛けて帰るつもりだったのだろうか。

それには赤毛の少年の優しさが表れていたのかもしれない。
それは無骨な優しさで。とても不器用なものだったけれど。


「ありがとう」


受け取る際に交わした視線。ロンの眼は頷いていた。

……最後に励ましてくれたのは、振ったはずの親友だった。


「……頑張れ」


そして、赤毛の少年はその空間から出ていき、また二人きりになる。





真夜中の談話室は昼間の喧噪が嘘のように静まり返っていて。
その空間に響くのは、ハリーと己自身に毛布を掛けるハーマイオニーの身じろぐ音だけ。

今は夜闇が世界を覆っていても、じきに明日はやってくる。
朝になって、光が世界に溢れれば、黒髪の少年は目を覚ますだろう。


もう隠すのは止める事にした。


朝、目が覚めても、そこには、自分の横には、ハリーがいるだろう。


……そしたら、きっと。

言うべき言葉なんて判っていたから。後は伝えるだけでいい。
ハーマイオニーはハリーを抱き締めて、そのまま眠る事にした。


誇り高き深紅のローブは、しかし、皺くちゃになる事、必至だった。





(おわり)













作者コメント

シリアスな感じに綴ってみた超短篇。私の本来の文体にわりと近いので、サクサク書 けた一品です。ハーマイオニーには少しだけうじうじして頂きました。ロンには少し だけ男気を発揮して頂きました。ハリーにはひたすら寝て頂きました(笑)。今作に 設定されていた拘束は『二人きり』『クィディッチのローブ』『キス』の三つ。ロー ブには苦労させられました。二人きりとキスはセットにできるのでかなり楽なのです が……。
しかし、寝込みを襲うのはいかんな。いかん、いかん。よい子は真似しないでくださ いね(笑)。
 by レイン坊